【ノーカット版】
成田:高本さんに会ってリュートのイメージが変わりました。一般の人がリュートと聞いて思う事はミンストレルホールだったりカメラータだったりあの時代の文化だと思います。カメラータは宮廷の知識人が集まって、たとえば天文学者やガリレオ・ガリレイを代表とするような知識人の中に音楽家ではなくリュート奏者という位置付けでカメラータの道をなしていたわけですよね。
高本:いろんな事が出来る中のひとつにリュート奏者という役割分担があって、リュートだけ弾いていたという人はたぶんいなかったでしょうね。もちろん曲も作れるし政治的な能力もありました。それから、宮廷リュート奏者の話でいうと、イギリスの作曲家ジョン・ダウランドは宮廷リュート奏者を望んでいましたが、カトリック教徒であったためになれなかったそうです。英国国教しかなれないということだったのですね。
成田:もうひとつはミンストレルホールという文化がありますよね。飲み屋に楽器を持って行って聴いて頂戴から始まり今度は皆でより集まってみたいな。完全に世俗の文化。そういう二つの対極的な側面をもっているリュートなんですが、吟遊詩人たちというのは主にリュート奏者なんですか?
高本:いえ、リュートは中心的な役割だったのでしょうけど笛やうたなど、それは様々な楽器だったと思います。教養のある貴族たちのことを吟遊詩人と呼んでいて演奏する人たちの事はジョングルールという演奏集団の演奏家にまかせてミンストレルたちは歌詞等を書いたりしていましたので、吟遊詩人が演奏していたわけではありません。吟遊詩人は貴族たちの総称なのです。
成田:そうなんですね。
高本:吟遊詩人の呼び名の名称でフランスの北と南で呼び名違うのですが、トルバドゥールやトルヴェールから雇われて宮廷に出入りしていたものもいたようです。
成田:ジンガーがいてマイスターがいてマイスタージンガーになるというワーグナーも16世紀の事をモチーフに書いているのでしょうからね。やっぱり曲を書けて歌えて初めてひとつの形になっているという意味で、シンガーソングライターというのはある意味マイスタージンガーということですね。
高本:私はマイスターの称号をもらったという事ですね。
成田:リュートの世界においてまさにそれをやろうとされてるって事ですよね?
高本:そんなおこがましい…。
成田:事実としてはそうゆうことになりますね。
高本:そうですね。もちろん古い楽器ですから古い曲を演奏して皆さんに聴いていいただくというのが大きな柱です。伝統から一度廃れてしまった楽器ですけど、ちょっとずつ知られるようになってきた中で、古い音楽を掘り起こしてまた後世に伝えて行く役割は大事な事ですが、いろんな奏者がいても良いかなと僕は思います。現代の音楽を聴いてしまっている耳なので古い時代の音楽だけをやるというのは不可能に感じます。当時は、現在でいう古い音楽というのは最先端な音楽なので、いろんな音楽を聴いた耳でリュートを使って、自分なりにかっこいい事をやりたいということで、今回のアルバムは古い音楽は入れない事になりました。
成田:今回はほとんどが書きおろしでいろんなゲストとセッションをする意味って何かと考えてみました。高本さんは音楽学校を出て古楽を勉強されていたのですか?
高本:大学では音楽学理、音楽療法を勉強していました。
成田:だったら尚の事だと思うのですが、今こういう風に考えられるようになった何かのひとつの背景の要因にはなっているのでしょうか。今回こういうアルバムにされた考えが知りたいのですが。
高本:それはすごくなっています。リュートで15世紀から17世紀までの人たちが残してくれたレパートリーを弾くのはもちろん至福の喜びですし、自分一人で弾いていても幸せな瞬間なのですが、僕はクラシックギターをずっとやってきて、ギターをやめた理由として、とにかくリュートの響きと音色の良さに完全にやられたんです。その響きを現代のポップ・・というとちょっと違う言葉なのかもしれないですが、
成田:ポップというと直訳すると大衆ですから、大衆にむけて?あえて日本語の方がしっくりくるかもしれない。
高本:そうですね、大衆にむけて、所謂、古いものじゃない形で何かできないかということを思っています。楽器の持っている響きというのはヨーロッパだけのものではなくて、 リュートから枝分かれして日本に入ってきた琵琶のように和の空気に絶対合うんじゃないかと思っています。どっちみち僕は日本人ですからヨーロッパに行っても東洋のリュート奏者と紹介されます。
成田:へ〜そうですか!
高本:必ず東洋のと付きます。だから僕は一生ぬぐえない。ぬぐえなくて良いと僕は思っています。そのニュアンスを持ったアルバムを作れないかと思って、それで自分で曲を作ってしまおうと思ったわけです。
成田:あえて東洋のリュート奏者であるということを大切にされていて、これからもそれを自分のタイトルとしてやっていくことを考えているということですね。
高本:もう、切っても切り離せない。血が日本人ですから。フフフフ。
成田:その辺って、今回のアルバムに一番大事なところですよね。
高本:そうですね。改めて成田さんとお話していて頭の中で整理された部分もあります。
成田:リュートっていったらバイス?ダウランド?何をするの?って特化する部分がありますよね。
高本:僕自身もそうでした。入って行った入り口は。でもあえてやらない。
でも、1曲目に今回自分自身が作った曲を入れたのですが、そのイントロに17世紀の元ドイツ人でイタリアで活躍していたリュート音楽の作曲家カプスペルガーのモチーフを持ってきてはいますけどね。
成田:カプスペルガーの主題による高本一郎のリュート曲。
高本:それを入り口にして実は違う。
成田:18世紀末からよくバロック以前の主題によるロマン派の作曲ものってすごく流行ったじゃないですか。有名なのはハイドンの主題によるブラームスの変奏曲とか、あの辺が強烈に売れたわけですよね。
高本:僕はとにかくリュートの響きをいろんなジャンルの音楽を聴く人にも知っていただきたいっていうのもあります。
成田:ひとつの側面として、高本さんの今現時点で大切していきたいと思うことはリュートの持つ歴史的な背景とか一先ずちょっと置いておこうと。もちろんあるけれどリュートという楽器の可能性だったり響きだったり、例えば独創的な形をしてるでしょ?とか、一度途絶えてしまったような楽器がなぜわざわざ今頃になって脚光を浴び始めているんだろうか?というのも大切な事なんですかね。
高本:脚光はまだ全然浴びてないんですけど。
成田:そんなことはないとおもいますよ。今回は13曲収録ということですが、何かストーリーはあったんですか?交響詩的な流れというものはあるのでしょうか?
高本: そうですね。オリエンタルな響き。オリエンタルといってもシルクロードを歩いた事はないのであの辺の雰囲気はわからないのですが、ちょっと東、ヨーロッパとアジアがまざっている部分と所謂日本というそっちのイメージがすごく強い感じ。
成田:それは西洋から見たオリエンタルですか?日本人が概念としてもっているオリエンタルという事ですか?それとも両方合わせた流れになっているのですか?
高本:そうですね。それは聴い頂いた人に判断してもらおうと。
成田:なるほど。答えは聴かれた方ご自身が判断すると。
高本:ただ、クラシック音楽の作曲法では禁則と言われている事を多用しています。連続五度や連続四度をアレンジで入れています。クラシックの大先生にはなんじゃこりゃと言われるでしょう。
成田:リュートという代弁者をもってしてクラシック音楽に新たな解釈をふきこもうと、まさにそういう風に言えなくもないですね。
高本:所謂クラシック音楽と呼ばれているものになる前はクラシックの音楽で禁則と呼ばれている事が音楽の主流でしたので、普段中世の音楽も演奏する機会があってなんて斬新でいい響きなんだろうと思っていたんですよ。それを今回使ってみようと思いました。
成田:歪んだ真珠から400年近くなるわけですが、今もクラシックの中ではかなり人気の音楽ジャンルじゃないですか。
高本:あれはあれで凄く素敵ですばらしいですね。僕も演奏していて幸せです。オリジナルの曲をリュート奏者が作ってレコーディングしているっていうのは世界でも何人もいないんですよ。そんなこと必要ないじゃないって考え方が主流ですから。作曲していたとしてもわりと現代音楽っぽい感じですね。そういうのはあまり興味がなくて耳に心地良いという変な言い方ですけど、もうちょっとメロディアスでもいいんじゃないかと思って。そういう曲が今回多いんですけど、その中にもただただ心地いいだけじゃない部分もあります。
成田:例えば、カラヤンとバーンシュタインの最も違うところは、カラヤンは100年、200年、300年と残って来たクラシックの作曲家が残した譜面をいかに忠実に演奏するか、それを再現する事に命をかけると言ったのがカラヤン。だって彼らを越える事が出来ないから。バーンシュタインの場合は自ら音楽を作って自分は何にも似ていないということが最も大事なのであるってところで、クラシックでは二人の事はかなり対極的に取り上げられるじゃないですか。
高本:確かに。楽譜に忠実に演奏するってことはとっても大事な事で、そのリュートのレパートリーの演奏をする上ではまず考えなければいけない事です。
成田:それは作曲者の力というものが、この何百年という時間を経て完成されてきたものと言う意味でしょうか。
高本:とてもじゃないけど、僕はあんな曲はかけないのでもうただただ尊敬というか、畏怖の念というのかな。
成田:それはやがては触発されていくというところに繋がらなくてはリスペクトという言葉の本来の意味にならないですよね。
高本:確かに。僕はリュートという楽器を使って、こういう響きを得たいしこういう曲を作りたいんだと今回のアルバムに込めてはいます。
成田:でもこれから、なにかますますいろんなバリエーションでいろんな事が考えられるし、もうすでに2001年に発売された、あれは例えばの話、オーバーチュア高本一郎として今回のは第一幕だとすれば、これから第何幕もある中に置いてのスタートだって言ってもいいかもしれないですね。この録音が。
高本:そうですね。前のCDはオーソドックスなルネッサンスの名曲集でした。
成田:シチリアーナは耳に残りますね。
高本:今回のアルバムのシチリアーナは自分なりにアレンジしたものが収録されています。
成田:幕に至るまでのオーバーチュアが11年という非常に長い時間でしたね。
高本:いつ出すんだと言われ続けてね。
成田:きっと高本ファンの方はもう異常な期待をされていらっしゃると思うのですが?
高本:まぁ、ちょっとハードルは下げて頂いて。
成田:ハードルっていうのは基本的に音楽家を始め美術家等の芸術家と呼ばれる人達は、ハードルは自分で作るものだから誰もハードルの位置を決められないですよ。
高本:期待値をちょっと低く目に持って置いてもらって。
成田:ははは
高本:さっき、一番初めにおっしゃったことでお聞きしたかった事は、僕に出逢った事でリュートの概念が変わったと言われましたが、そのことを詳しくお聞かせ下さい。
成田:まずはリュートは可能性があるんだなという事を一番最初に思いました。ヤコブ・リンドベリが1500年代のオリジナルのリュートの修復記念ライブで10年ぐらい前に来日したとき、リュートってこれなんだ〜となんとなく思いました。ま〜音が出ないですね。小さい音でね。その時は竪琴との2部声だったんですが、共鳴弦のようにブヨブヨに張っているのを弾いているんですね。そんな感じでありながらメロディーラインをきちっと奏でている。そのときに感じたのは、まず水。それから光。リュートってルミナス luminousのluだから光っていうものに対してひも解いていけば語源の中にリュートの音というのは光なんじゃないか?みたいなものをふと今思いました。昔はヴァイオリン弾きをフィドラーと言いましたが、フィドルというのは人の心を蝕んでフィドルの音色で人を殺す事も出来る。タルティーニの曲によくあるようにそういうテーマがすごく多いじゃないですか。では、フィドルは人を殺す事ができるのであれば、リュートは光を持って人を幸せにすることができるっていうような感じといったら、あまりにもくさすぎますかね?
高本:いえいえ、それは弾いていても強く感じます。リュートにしか出せないものっていうのはあると思います。もちろん眠りにつかせることは出来ると思いますが。
成田:まさに、そのためのものとして始まったわけですから。ムジカ・アンシェンヌというものがありまして、アンシェンヌというのはフランス語で古いとか熟成されたとか、枯れたとか。
リュートは古い楽器だから、単にアンシェンヌと言う風に、もしかしして最初はそういう風につけられていたかもしれないけれども、それではあまりにも単純過ぎて純粋すぎるのでだんだんだんだんアンシェンヌという響きも含めアンシェンヌという言葉の意味合いに対して自分もアンシェンヌになっていかれたと思うんですよね。
高本:確かにその400年以上前、もっといったら5、600年も前の楽器を現在今も弾いてるってことは奇跡的な事ですしそういうものを聴いて下さる方がいらっしゃるということも奇跡です。知っている方が少ないですから、もっともっと増えてほしいと思います。
成田:考えてみたら未だに日本の中心地では500年ぐらい前のお茶碗でお茶を飲んでいたりしますからね。
高本:過去の遺物ではないんですね。
成田:ダウランドは1563年前に生まれているので丁度400年前生まれなんですよ。僕は1963年で同じ63年生まれ。なかなかダウランドから離れられなくて申し訳ない。
一度、池袋のケルトバーで聴かせていただいた事がありましたけれども、スコットランド風の酒場で演奏されるときとスタジオでマイクに向かって演奏されるときとはどう違うのでしょうか。
高本:ライブで演奏するときは身近に大好きなお酒があるので、ハッピーな気持ちでお客様が前に居てくれますので、それによってどんどんどんどん自分の中でいろんなインスピレーションが出てきてそれが良い方向に行くときもあれば悪い方向に行くときもあって、もちろん共演している方の機嫌や体調であったり、楽器の機嫌もありますし、どんどん空気感も変わってきます。
録音っていうのは目に見えてない人達に対して演奏するということとで、ライブで自分の音を聴いているときと、レコーディングで聴くのでは多分聴き方が違うのですごくシビアになっています。ほんとはライブで演奏しているようにレコーディングでも演奏できればいいのですが。
成田:ライブ録音的なものって事ですか?
高本:一番の理想です。そういう心持で演奏したいです。マイクを目の前にして演奏するのはとてもシビアです。
成田:マイクを目の前にしていて演奏しているのではなくて、マイクの先には目に見えない沢山の方が聴いているってことが大事なんですよねってこの前話していたら、そんなこと考えてますよ!それが一番大事な事ってわかってますよ!っていう風に言われてたので。
高本:これはここではいいませんけれど、一番大事なことは考えています。それだけの為に演奏しています。それは何かって事がひとつあるんですけど。
成田:それは実際聴かれた方に感じていただくというひとつのミステリアスな部分は取っておいた方がいいですよね。
高本:それが僕の演奏しているときの一番の目的というか、目標。
成田:存在の理由みたいな。
高本:僕が音楽をさせてもらってる理由。
成田:つまりなんでしょう。ライブっていうのは録り直しの利かない録音だとしても、録音しているときに録り直しが利くと思って演奏はしていないと思うんですよ。
高本:思ってないです。
成田:それを思ってしまうと、10回やろうと100回やろうと良い音は録れないですよね。いっその事録りっぱなしで多少失敗しても一切録り直ししないっていうくくりを作って録音するっていうのも考えてみてもおもしろいんじゃないでしょうか。その方が危機迫った強烈なものが出来るかもしれませんよね。
高本:ははは。そしたら早く終わりますよね。
成田:聴き手としたらそういう事を求めているわけですよ。まして、リュートのCDをわざわざ買ってそれを自分の時間の為に自分の空間にそれを流し出すっていう人達はそういう期待感っていうか、そういうモチベーションをいうか、そういうものは少なからずともリュート以外の楽器を何か聴いてみよう、ポップスを聴いてみようロックを聴いてみようオーケストラを聴いてみようと思う人よりもちょっと変わり者というか、かなりサディスティックというか、エゴイストというかそういう人がファンの比率としては多いのではないでしょうか。
高本:何十回何百回と聴いて頂くものなので、傷があるとよくないと思うんですよね。ふふふふ。
成田:それはやっぱり演奏者の都合ですね。はははは。伝説として残っていくものっていうのは常に今何かをやられているものだと思うんですよね。今現在録音されているものが伝説になる可能性というものを秘めたものですよね。だから聴き手としては、高本さんはきっとそう思って録音に臨んでいるんだろうというふうに思ってCDを取り出してプレイボタンを押す時というのが一番聴き手として嬉しい瞬間なのかなと、あくまで聴き手の感じを言えば。
高本:これまでリュートが好きで聴いていた人、これから聴いて行かれる方の心の隙間の何処かに入れるような、こんなのもあってもいいんじゃない?て言う風にちょっとでいいから思ってほしいなと考えてます。全く知らない人がリュートってなかなかいいじゃん、じゃぁ昔のもちょっと聴いてみようって思って頂けると嬉しいですし、全く関係なく良い音楽だねって聴いて頂けるのもありがたいですし。高本一郎って人間がおったんかと思って頂ければありがたいです。
成田:高本一郎は、饒舌すぎなくて静かな光の様なリュートであってほしいとご自身も思われているという解釈でよろしいでしょうか。
高本:そうですね。僕が一番音楽で大事にしていることははかなさなんですけど、切なさとはちょっと違う消えゆく瞬間の美しさというか。
成田:まさに古いブルゴーニュワインの最期の瞬間ですね。
高本:どこかにきらきら光る瞬間があるんじゃないかと思います。それを感じとっていただければ一番嬉しいなと思います。
成田:音と音の間に光が洩れてくるように。
高本:今回ゲストの方の贅沢です。クラシック畑ではない方々が多いような。
成田:シルクロードをリアルに体験されている方を始め、楽しみですね。
高本:ライブ感というかセッション感みたいなのがあって、その場で楽譜を渡したりなんかして、それでやってくれる信頼を置けるゲストの皆さんで、そうやって下さる方々だったので余計なことはあまり言わず。6名のゲストのほとんどは、日ごろから親しくしている方々でした。
2012年3月28日 下北沢「LADY JANE」にて
Photo: Masanori Doi
Photo: yamasin(g)
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